
記
歴史におけるバッハ - 巨人
ヨハン・セバスチャン・バッハは、多くの人にとってドイツで最も偉大な作曲家として知られ、知性と技術の両面の深さを持って、バロック時代を超えて現代21世紀に至るまで尊敬され続けています。CDの販売量が尊敬・価値の尺度になるかどうかは議論の分かれるところでしょうが、バッハのそれはモーツァルトについて歴史上第二位につけています。
バッハの音楽は、高い技術に裏打ちされた、至高の精神性と明晰な知性により特徴付けられましょう。彼の音楽の中では、和声と対位法の、数学的、対称性によるバランスが完全なまでに取られており、形式と直感の間の“等式”が実現されています。バッハの音楽は、それ以前の西洋音楽にひとつの頂点を打ち立てたといえます。
バッハは、彼の出身地北ドイツで使われていた対位法に限界を感じ、当時のフランスやイタリアのバロック作曲家の手法を吸収し、自らのスタイルの確立していきました。その中でも、ビバルディは、バッハの和音進行と主題の発展について大きな影響を与えました。
バッハの作品
人気があり、よく演奏される作品としては:様々な楽器のための協奏曲(Concerto)、ブランデンブルグ協奏曲;、オーケストラ用の組曲、ゴルドベルグ変奏曲;イギリス組曲、フランス組曲、パルティータ、平均律、ミサ(ロ単調);マタイ受難曲;ヨハネ受難曲;音楽の捧げ物;フーガの技法;バイオリンソロのためのソナタとパルティータ;チェロ組曲;現存するだけでも200を超えるカンタータ;約同数のオルガン曲(トッカータとフーガニ短調は特に有名!)
生前は主にオルガン奏者として知られていたバッハは、オルガンとハープシコードを始め、ソロの為の器楽曲を数多く作りました。その多くは家族や生徒の為に作曲されたにも関わらず、高い芸術性を誇っています。チェロの無伴奏組曲はその代表とおもいます。バッハ以前は(またそれ以降もしばらくは)、チェロだけで音楽的な世界を作り上げられるとは考えもしませんでした。バッハは、当時の西洋社会の先入観に捕らわれることなく、ソロの曲を自己完結したものにすることができたのです。
バッハが残した、ソロ器楽曲史上の記念碑的作品としては、もう一つ、ゴルドベルグ変奏曲が挙げられます。この名曲がどのように誕生したかは、以下の話から読み取ることができます:
(Wikipediaより抜粋・翻訳)
どのようにしてこの変奏曲が作曲されるに至ったか(Johann Nikolaus Forkelによるバッハの伝記より)
この作品については、当時のサクソニー区のロシア大使、カイザーリング伯爵(Count Kaiserling)に感謝せねばならない。彼は、前述のゴルドベルグを連れてライプツィヒをたびたび訪れては、そこで彼にバッハの教えを受けさせたのだ。そもそも伯爵は、病気がちで不眠症に悩まされていたが、そのような夜は、同居していたゴルドベルグが控えの間で伯爵の為に音楽を演奏していた。あるとき、伯爵がバッハの噂を聞きつけ、ゴルドベルグが弾く為の、気持ちを落ち着かせながらも、活き活きとしていて、眠れる夜を楽しませるような音楽をバッハに作曲してもらおうと思い立った。その話しを聞いたバッハは、そのアイディアを実現するためには、変奏曲の形態をとるのがよいと考えた。なお、それまでバッハは、変奏曲を、同じ和音進行を繰り返すだけの凡庸な形態を考えていたが、この作品を通し、バッハは自分の技法をすべて駆使して、自分で納得できる形に仕上げることができた。しかし、彼はこの種の音楽を他に作曲することはそれ以降無かった。以来、伯爵はその曲を“自分の”変奏曲と呼ぶようになった。彼は飽きることなく聞き続け、眠れる夜は必ず、“ゴルドベルグよ、私の変奏曲を演奏しておくれ”というのであった。伯爵は、この曲の為に100ルイドール(louis-d’or)が満たされた金のグラスをバッハに進呈した。バッハは、一曲でこれほど報酬をもらった曲は他に無いのではないか。しかし、その音楽的価値はそれを遥かに超えるものであった。
バッハのカンタータ - 彼の芸術的頂点
バッハは、現存する200超の曲に、未発見の約100曲を合わせたカンタータを作曲しました。その多くは宗教的な曲でしたが、“コーヒーカンタータ”のよういそうでない曲もあります。バッハのカンタータは、小編成のオーケストラ、ソリストとコーラスの組み合わせで構成され、演奏時間は平均30分ほど。バッハは、長い期間、カンタータを契約上の仕事として月に一曲(あるときは週に一曲)仕上げる必要がありましたが、そのどの曲にも彼の才能が明白に見て取れます。カンタータでは、バッハが高尚に、そして文字通り歌いそして踊り出る - これこそバッハ音楽の頂点。改めて驚くべきことですが、これらの曲は契約上強制的に作られたにも関わらず、どれもが傑作なのです。
ベルリンでのバッハ
バッハは、1719年に、ケーテン(Koethen)の彼の雇い主の為に、ハープシコードを買うため初めて訪れました。彼の息子のカール・フィリップ・バッハがベルリンに住んでいた間は、バッハは定期的にベルリンを訪れていました。それ以降も、1741年と、確実ではないものの、オーストリアとプロシア間のシュレージエン(Silesian)戦争中、ライプツィヒがプロシアに占領されていた1745年にもベルリンを訪れたようです。
その中でも、1747年5月の、息子のウィルヘルム・フリーデマン(Wilhelm Friedemann)とのベルリン滞在が一番有名でしょう。そこでバッハは、アマチュアながら熱狂的な音楽好きで、自身でもフルートを吹く、プロシアのフレデリック大王(Frederick the Great)に、ポツダム宮殿(Stadtschloss in Potsdam)に招待れました。バッハは、ポツダムにあるすべてのオルガンと、宮殿にある新しく開発されたフォルテピアノ(fortepiano)を弾いてみました。
そこでの滞在のクライマックスは、王から有名な旋律主題を受けとり、それを曲に仕上げる要請を受けたときから始まりました。バッハはまずその主題を用いて即興演奏を行いましたが、王に、より精錬させて記譜するために、一度持ち帰れるように願いでました。その結果、“音楽の捧げ物”(BVW1079)が生まれ、王に捧げられました。
バッハの生活と個性
JSバッハは、1685年3月31日(旧ユリウス暦だと3月21日)に、アイゼンナハにて生まれました。先祖は、ハンガリーに住んでいて、ドイツに戻ってきたドイツの部族に遡ることができます。バッハ家は、JSバッハの世代以前にも多くの音楽家を生み出しており、直近の親族、父親、いとこや息子たちにも音楽家が多くいました。
バッハは、人生をとおして 家族と自分の作品両方に、非常に献身的でした。しかし、彼の音楽が遥かに時代を超越した豊かなものにも関わらず、生活についてはそうではないようでした。この非凡なるバッハを理解するには、宮廷音楽家のいた、当時の社会・政治環境を理解する必要があります。少しでも当時の状況を調べると、現代の人は当時の不平等や不義にぞっとすることでしょう。
バッハは、他の当時の芸術家達同様、その作品や演奏を必死になって売り歩かねばなりませんでした。彼のパトロンは、伯爵や王子などの所謂貴族、現在でいう“上流社会”に属しており、フレデリック大王のような例外もいますが、ほとんどは見せかけばかりで中身が空っぽでした。
この貴族社会の、所謂良家のやんごとなき人々の多くは、退屈で、知性を欠き、その間では近親相姦による障害が蔓延していました。それでも、彼らは国を治めていて、もしその社会の中で生き延びたければ、彼らの愚かさに服従し、彼らから報酬を頂戴するしかなかったのです。
彼ら上流階級では、不適な管理、競争力の無さ、不義、尊大さ、陰謀、内部抗争そして無知がとどまることを知らず、その中で芸術家とその家族は、捕らわれの身のように生活せざるを得ませんでした。ここで教会についても言及しなければなりません。モーツァルトを悲劇に追いやったオーストリアの偽善カトリックのマフィアほどではないにしても、バッハの雇い主であった、カルビン主義者で北ドイツのルター派教会の支配層は、バッハの音楽に対して、“長すぎる”、“モダンすぎる”、“古すぎる”、“宗教性が十分ではない”等々、散々に文句を言いました。
あるときバッハは、自ら仕える公爵に一月も投獄され、名誉回復も無く釈放されたこともありました。というのも、ある時バッハは、雇い主の公爵のライバルの公爵に、平然と結婚式の音楽を作曲し、それを雇い主に禁止されたのですが、バッハはそれを頑固に拒否したからです。18世紀のドイツで、奴隷制がまだ存続していたとは!
バッハは二回幸せに結婚しましたが、一人目の妻は、若くして死んでしまいました。両方の結婚生活を通して、彼は20人の子供を作りましたが、幼少時代を生き延びたのはたった10人でした。
バッハは、よい夫でありよい父親で、家族に対して献身的でした。また彼は、要求が多くプライドが高いことでも有名で、勤勉でよく働き、概して理にかなった、自戒と自制をもった人でした。しかし、彼が若かったころは、往々にして感情に身を任せていました。23歳のとき、反対意見ばかりいうオーボエ奏者との殴りあいの喧嘩をして、職場のルター派の教会を首になったことがあるのです!
家庭的にも仕事的にも、一番幸せだったのは、ワイマールのケーテンでカペルマイスター(楽団指揮者)をしていた時代(1717~1723)かも知れません。彼は人生の後半をライプツィヒで、聖トーマス教会(St Tomas Kirche)のカントール(音楽監督兼教師)として過ごし、そこでは安定して実り豊かな時間を過ごし、然るべき名声と評価を得ました。が、またここで役所といざこざが起きます。彼は、1730年に書かれた手紙の中で、近況を述べる際にこう書きました:“私は、終わることのない嫌がらせ、嫉妬そして迫害の中で生きなければいけないのです。”
バッハは、1750年7月28日に、どんどん悪くなる視力の治療により亡くなりました。ただ、その当時はよくあったことですが、このイギリスから来た医者は、他の多くの医者同様、“善意あるやぶ医者”だったようです。現在、バッハの病気は糖尿病だったと考えられています。
奇遇で、かつ残念なことですが、ベートーベンやモーリス・ラベル等、他の偉大なる作曲家もやはりこの“善意ある”医者たちにより命を失ってきました。
締めくくりに - バッハについての個人的告白
はっきり認めますが、私は物心ついたとき以来バッハの大ファンです。去年はモーツァルトの天才のとりこになり、またリヒャルト・シュトラウスのオペラこそ世界で一番の音楽であると信じているにも関わらず、いつも心はバッハに戻ってきます。
さて、美とは見る側のものであり、主観的な嗜好は論理的な議論の基本にはならない - それは、オレンジ色に比べて青色は馬鹿っぽいのでオレンジの方が美しいというのと同じことで、こういう議論は何も生み出さない(しかしもしこれが、サッカーであれば、オレンジ(オランダ)はいつでも美しい!)
というわけで、完全に主観的と割り切った上で言わせていただきますが、リヒャルト・シュトラウスのオペラと並んで、バッハのカンタータは音楽史上最も美しい。加えて言うならば、ベーとベーンのミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)は、単体の曲としては最も美しい。
バッハの演奏 - 推薦
チェロ組曲に関しては、いい録音がたくさんあります。個人的には、ヤーノシュ・シュタルケル(Janos Starker)とアンナー・ビルスマ(Anner Blysma)が好きですが、両者の演奏はかなり異なります。シュターケルは、比較的ロマンティックで、ビルスマは比較的古典的・バロック的ですが、両者とも正統かつ荘厳な解釈で、何度聴いても飽きることがありません。チェロのためのパルティータの最近の録音では、ノルウェーのチェロ奏者、トルルス・モルク(Truls Mørk)とオランダのピーター・ウィスペルウェイ(Pieter Wispelwey)を挙げさせてもらいます。
ゴルドベルグ変奏曲については、偉大なるバッハの解釈者、カナダ人ピアニストのグレン・グールドの、1955年に行われた録音と、1981年に行われた、瞑想かつメランコリックでさえある録音を、まずは聞く必要があるでしょう。また、ロシア人ピアニストのヴラジーミル・フェルツマン(Vladimir Feltsman)とマリヤ・ユーディナ(Maria Yudina)は、それぞれ異なりながら素晴らしい解釈を聴かせてくれます。フェルツマンは、バッハの作品を非常に愛し、それが演奏に顕れており、私はグールドの次に好きです。しきたりに捕らわれず、履き心地がいいとの理由から運動靴で演奏をした伝説を持つユーディーナの演奏は、すべてには共感できないものの、心をつかみ、刺激的で想像力が豊かなものです。
最後に、カンタータの録音のお勧めですが、なんと言ってもTELDECというレーベルから出ている、グスタフ・レオンハルト(Gustav Leonhardt)とニコラウス・アーノンクール(Nikolaus Harnoncourt)のシリーズでしょう。1971年から1989年、18年にもわたり録音されたこの演奏は、他のあらゆる録音を凌駕し、別次元の物とさえ言えます。
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もし、以上に述べたものとまったく異なる視点を見てみたければ、バッハのカンタータは醜いと言い切る、リチャード・タルスキン(Richard Taruskin)というアメリカ人の記事を読まれるのも一興かもしれません。
[http://www.nytimes.com/1991/01/27/arts/recordings-view-facing-up-finally-to-bach-s-dark-vision.html?n=Top/Reference/Times%20Topics/People/B/Bach,%20Johann%20Sebastian]
バッハの研究 - 推奨文献
詳細なバッハの研究文献としては、クリストル・ヴォルフ(Christoph Wolff)による、冷静で辛抱強く、説得力あるバッハの分析、“JS BACH The Learned Musician”を推薦します。よりオンラインで調べられたい方には、以下のサイトがお勧めです:http://jsbach.org/
Tags:バッハ、作曲家、ヨハン・セバスチャン・バッハ
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